【読みもの】『パソコンとヒッピー』ができるまで あとがき

【連載7回目】
『パソコンとヒッピー』ができるまで
雑誌『スペクテイター』の冒険、その現在地
取材・構成 桜井通開
あとがき
私は1990年代、『ショートカット』というミニコミ(いまでいうZINE)をやっていました(1991年から1999年のあいだに122号を発行、他にも別冊など多数)。『ショートカット』はコピー・ホチキス留めのチープなつくりで、部数も100部くらいであり、ごく一部でしか知られていないマイナーなミニコミでしたが、赤田さんは『ショートカット』をタコシェ(中野ブロードウェイにあるマニアックなお店)で入手し、かなり初期の号からずっと読んでくださっていたそうです。赤田さんは今回のインタビューで、コミティアや文学フリマなどの即売会で入手した冊子から、『スペクテイター』のあたらしい書き手をさがすことが多い、と語っていますが、それはまさに、1990年代にタコシェで『ショートカット』を入手したというのと、そっくりだと思うのです。つまり赤田さんは、1990年代からいまにいたるまで、マニアックな店や即売会に足をはこび、おもしろそうな、マイナーな冊子をみつけて、その才能を発掘する、ということを、ずっとやってきているわけです。

赤田さんは私にとって、『Quick Japan』を立ち上げた名編集者として、私が『ショートカット』をやっていた1990年代から、ずっとリスペクトしてきた存在でした。赤田さんの著書『「ポパイ」の時代』(2002年)が出たころに、当時赤田さんが在籍していた飛鳥新社でお会いする機会があり、そのときに、『ショートカット』を初期からずっと読んでくださっていた話などをうかがって、仰天したことを覚えています。その後、インタビューでもふれられているように、赤田さんは『スペクテイター』に移籍しました。そこからまもない、「小商い」の号(2013年、Vol.27)で、私に声をかけてくださり、私はその号から、『スペクテイター』にたびたび寄稿するようになりました。
関根さんのインタビューの最後に、雑誌『母の友』での関根さんの連載「答えがほしいわけじゃないの」をまとめた冊子について情報をのせましたが、その冊子をあつかっているお店のひとつが、タコシェです。タコシェは、1990年代に『ショートカット』を早くから扱ってくれたお店であり、そのおかげで、赤田さんは『ショートカット』を見つけることになったわけです。タコシェも赤田さんと同様に、1990年代からいまにいたるまで、関根さんの冊子のようなインディーズのZINEを、ずっと扱っているわけです。
私が関根さんの作品をはじめて見たのは、インタビューでもふれていますが、関根さんが赤田さんとのコラボレーションを最初におこなった、「わび・さび」の号(2019年、Vol.43)でした。関根さんのマンガは、どのコマをとっても、余白の多い、簡略なタッチながら、絵・イラストとしての完成度が高く、とりわけ、人物の愛らしさや、コマ割りの巧みさなどに、傑出したものがあると思います。赤田さんのインタビューでもふれられているように、赤田さんの情報量多めな原作をうまくさばいて、「風の道」をとおすというのは、一種のマジックすら感じられます。「わび・さび」の号のあとも、赤田さん原作による関根さんの作品はつぎつぎと『スペクテイター』にあらわれ、最近ではほとんど毎号のように、関根さんの作品がのっているとかんじられるほどです。
今回の関根さんへのインタビューでは、マンガ家になったのは『まんが道』がきっかけだったこと、ご自宅にパソコンが2台あり、お兄さんたちが「ベーマガ」を見ながらゲームのプログラムを打ちこんでいる環境で育ったこと、それゆえ、「パソコンとヒッピー」というのは郷愁をかんじるほど、関根さんにピッタリのテーマだったこと、アルバイトで中央公論新社『哲学の歴史』の制作にかかわって哲学が好きになり、『ソフィーの世界』に衝撃をうけたことなど、これまで作品でしか知らなかった関根さんのバックグラウンドについて、多くの貴重なお話をうかがい、驚きとともに、どこかしら納得感もあるような、そんな印象をうけました。
青野さんも赤田さん同様、私にとっては、『バァフアウト!』という、当時は一世を風靡したともいえる雑誌を立ちあげた編集者であり、ずっと意識してきた、気になる存在でした。というのも、『バァフアウト!』はオシャレでカッコいい雑誌だったので、チープでマイナーな『ショートカット』をやっていた私は、『バァフアウト!』にどこかしら反発を感じていたのです(笑)。インタビューでもふれられているように、青野さんはその後『バァフアウト!』を離れ、自分にとって理想的な雑誌のかたちを求めて、『スペクテイター』を立ち上げます。さきほどふれたように、私は2013年の「小商い」の号(Vol.27)から『スペクテイター』に書きはじめたのですが、それ以前は、『スペクテイター』はたまに立ち読みするくらいで、「オシャレなアウトドア雑誌」くらいにしか思っていませんでした。しかし、自分も書きはじめて、『スペクテイター』を深く読み込むようになってからは、この雑誌はオシャレというよりも、むしろ芯のつよい、なかなか骨のある雑誌だということが、わかってきました。オシャレに見えるのは、関根さんもインタビューで語っていますが、デザインがいい、ということが大きいかもしれません。その後、『スペクテイター』は号をかさねるにつれて、特集への集中度が高くなっていき、私が最初に寄稿した、巻末のコラムページもなくなりました。
青野さんとはじめてお会いしたのは、『スペクテイター』に何度か寄稿したあとのころで、何かの打ちあわせのために、青野さん、赤田さん、私の3人で、神保町の喫茶店でお会いしました。そのときは、打ちあわせがメインで、フライフィッシングの話など、余談的なことも多少話しましたが、雑誌の話は出なかったと思います。今回のインタビューで、青野さんは小学生のころから、大人向けの雑誌を読みまくっていたことを、私も初めて知りました。青野さんは1967年生まれで、私は1969年生まれなので、ほぼ同世代であり、インタビューで出てきたような1980年代の雑誌について、私もそこそこ読んではいたのですが、青野さんの早熟さと、ハンパでない雑誌狂ぶりは、それなりに雑誌が好きだった私からしても、そうとうなものです。
青野さんはインタビューのなかで、影響をうけた雑誌のうち、橘川幸夫さんの『ポンプ』をとりわけ強調していますが、これも私にとっては、印象的なところでした。というのも、私が1990年代にやっていた『ショートカット』は、『ポンプ』同様、投稿によって構成される雑誌だったのです。当時は『ポンプ』を知らなかったので、マネしたわけではないのですが、『ショートカット』のような手法の雑誌がすでにあったことを、あとになって知り、それいらい、『ポンプ』は私にとって、気になる雑誌でありつづけています。
1980年代の雑誌は、いまのインターネットやSNSにつうじるものだった、といったことも、青野さんは語っていますが、これも、重要なポイントだと思います。日本では1995-96年頃にインターネットが普及しはじめますが、HTMLを手打ちしてホームページをつくる時代がしばらくつづき、ブログが普及するのも2000年代に入ってからなので、1990年代のインターネットは、メディアとしてはまだ幼かったように思います。反面、雑誌はまだ有効であり、バブル崩壊の影響もあって、1980年代ほどの隆盛はなかったかもしれませんが、じゅうぶんパワーをもっていました。だからこそ、赤田さんの『Quick Japan』も、青野さんの『バァフアウト!』も、そして私の『ショートカット』も、1990年代にはじまったわけです。
赤田さんのインタビューでも、青野さんのインタビューでも、大きく強調されているのが、『ホール・アース・カタログ』です。『ホール・アース・カタログ』については、インタビュー中でもたくさん語られているとおり、『スペクテイター』にもっとも影響をあたえた雑誌、といえるでしょう。『ホール・アース・カタログ』は私にとっても、きわめて重要な雑誌です。『スペクテイター』の『ホール・アース・カタログ』特集(前編は2013年のVol.29、後編は2014年のVol.30)については、インタビュー中にもたびたび出てきますが、これの後編に、私は「ホール・アース・カタログを通読する」という記事を書きました。この記事のあとがきとして、「ホール・アース・カタログを通読して」という1ページの文章を書いたのですが、これの冒頭部分を、以下にそのまま引用します。
<私は『ホール・アース・カタログ』(以下『WEC』)について、昔から間接的には知っていたのだが、現物を見たのは今回が初めてだった。私は1998年、当時あった「ホットワイアード」というサイトの「CAVE」というコーナーに、書評などを寄稿していた。いま考えると、「CAVE」というのはカタログ方式で、まさに『WEC』っぽい作りだった。しかし『WEC』を知らない当時の私は、ただ自分が好きな本を紹介していた(本のチョイスは任されていた)。そのとき私が選んだ本とは、フラーの『宇宙船地球号』、ウィーナーの『人間機械論』、エドワード・ホール『かくれた次元』、松岡正剛監修『情報の歴史』、戸田ツトム『断層図鑑』といったものだった。まさに『WEC』的というしかない、いま考えても驚きのセレクトである。じっさい、この最初の3冊は『ラスト・ホール・アース・カタログ』に載っている。それも小さな扱いではない>。

ここにあるように、私がまだ『ショートカット』をやっていた1998年、当時あった「ホットワイアード(HotWired Japan)」というサイトの「CAVE」というコーナーに、私は書評などを寄稿していました(「ホットワイアード」の編集長は江坂健氏、副編集長は川崎和哉氏でした)。当時の私はまだ『ホール・アース・カタログ』を知りませんでしたが、にもかかわらず、私がチョイスした本はじつに『ホール・アース・カタログ』的だった、ということを、ここでは書いています。これにつづく部分では、松岡正剛+戸田ツトム『情報の歴史』や、雑誌『遊』について紹介しています。『ホール・アース・カタログ』に影響をうけた日本の雑誌はたくさんありますが、『遊』はその代表的な雑誌のひとつです。

ちなみに、私がパソコンをはじめて買ったのは1996年で、Macの初心者向け機種である「Performa 5320」でした(OSは「漢字Talk 7.5」だったか)。まもなくインターネットにも接続し、パソコンの用途はおもに、『ショートカット』の制作と、インターネットを見ることでした。しかし、それまでの私はコンピュータが苦手で、大学でも逃げ回っていたくらいなので、パソコンに慣れるまでは、時間がかかりました。しかし、HyperCardという手軽なアプリ制作ツールを学んだり、ホームページをつくるためにJavaScriptを学んだりしているうちに、プログラミングにハマっていきました。「ホットワイアード」に寄稿していた1998年には、JavaScriptよりも本格的なJavaにも手を出していて、Javaアプレット(ホームページに組み込めるJavaアプリ。JavaScriptや、のちのFlashに似ている)をつくったりしていました(当時のJavaは、たしかJDK 1.0.2でした)。その翌年の1999年からIT業界に入り、2000年にはPythonという言語と、ZopeというPythonアプリに出会って、これに人生を変えられるほどの衝撃をうけ、そちらの方面に邁進していくことになります。
つまり、いまの私にとって、『ホール・アース・カタログ』という雑誌は、まず第一に、当時は直接的には知らなかったにもかかわらず、「ホットワイアード」に寄稿していた1998年ごろの思い出とともにあります。当時はプログラミングにハマっていき、翌年からIT業界に入る、その前年だったので、私の興味の対象が、コンピュータとプログラミングへどんどん傾斜していった時期にあたります。
そして第二には、上記にあとがきの冒頭を引用した「ホール・アース・カタログを通読する」という記事を書いた、『スペクテイター』Vol.30(2014年)の頃の思い出とともにあります。この記事は私にとって、『スペクテイター』への2回目の寄稿であり、1回目がみじかい巻末コラムだったのにたいして、これは『ラスト・ホール・アース・カタログ』という分厚い英文雑誌を通読して、その主なコンテンツをひろっていくという長大な記事であり、私が『スペクテイター』に寄稿した、最初の本格的な記事でした。『ホール・アース・カタログ』の内容はきわめて多方面にわたり、かつ1960年代・70年代の古い話で、しかもそれが英文で書かれているということで、ざっと通読しておおまかに内容をつかむというだけでも、そうとうにたいへんでした。しかし、このときにいろいろなことを調べて、たくさんの学びがありました。
そして第三には、今回の取材記事の主題でもある、「パソコンとヒッピー」の号(2021年、Vol.48)の頃の思い出とともにあります。この号は、今回単行本化されたマンガ作品(赤田さん+関根さん)がメインコンテンツでしたが、私は「コンピュータのABC」という、コンピュータと計算の歴史をやさしく解説する記事を書きました。この記事はおそらく、これまで『スペクテイター』にのった記事のなかで、もっとも技術的な内容をもつものであり、これをどのようなものにするかをめぐって、編集部の赤田さん・青野さんとも、激しくやりとりしたのを覚えています。この記事は私にとって、「ホットワイアード」の頃からコンピュータに没入しはじめた私が、ITの道にすすみ、『ホール・アース・カタログ』ネタで『スペクテイター』に本格寄稿しはじめ、その後もたびたび寄稿をかさねて、その『スペクテイター』の「パソコンとヒッピー」の号にコンピュータの解説記事を書いた、ということで、個人的には、ひとつの到達点のようでもあり、あるいは、一周まわって、以前と似たような場所にかえってきているようでもあり、原稿を仕上げるまでの苦労や、私が描いたヘタクソなイラストものせてもらったこととあわせて、たいへん思い出深いものとなりました。
青野さんはインタビューのなかで、『ホール・アース・カタログ』によって、『スペクテイター』の「自分さがしのQUEST(探求の旅)」がはじまり、「パソコンとヒッピー」の号が、そのひとつの最終解のようなもので、今回それが単行本になったことで、これで一段落かもしれない、といったことを語っています。これはちょうど、私自身にも、わりとあてはまっているような気がします。私がコンピュータに傾斜していった頃にも、『スペクテイター』に書きはじめた頃にも、「パソコンとヒッピー」の頃にも、私の人生がいくらか場面転換するとき、そこにはつねに、『ホール・アース・カタログ』の影があったような、そんな気がします。
「パソコンとヒッピー」とは、いってみれば、『ホール・アース・カタログ』のことなのです。そして、赤田さんも、青野さんも、私も、これほどまでに、この『ホール・アース・カタログ』にひきつけられる理由は、3人とも、雑誌で育ち、雑誌が大好きであって、そしてこの雑誌こそが、「雑誌のなかの雑誌」、「雑誌の王」であるからなのです。(完)
